2007年2月 5日 (月)

ブログとは・・・

本日でボクのブログも最後になると思うので、このブログについて考えてみたい。ブログとはなんぞや。インターネット上の日記と説明させることが多いが、ほんとうに日記なのか。そもそも日記とは、その日の出来事(事実)と心情(真実)を、思い出として書き記すものであり、他人に知られたくない、人には話せないが日記に気持ちをぶつけて、秘密にしておきたいことでも日記には書ける性質の記録である。従って、裁判においても日記は事実の記録として扱われるので、重要な文書である。これを逆手にとって、嘘の記録を日記につけ、アリバイ工作に利用されることもあるが、そういう事件に関係なければ、一応日記に書かれていることは事実であり、その時点における真実の記録なのである。しかし、ブログはどうだろう。最初から他人に読まれることを前提とした日記であるので、ほんとうに事実、真実が書かれているのだろうか。作り話や自分を良く見せようと虚構に富んだ内容もあるだろう。最初はとるに足らない小さな嘘と言うか理想の自分の姿をブログに登場させ、毎日ブログ上で成長させていくと、いつのまにかVirtual reality(仮想現実)にどっぷりはまりこんで、その世界の自分こそ真の自分と錯覚し、(ある時は犯罪に、ある時は自殺など)現世界における自己の破滅に繋がるようなことはないのだろうか。言いたいことも言えず、相手に告げたいことも告げれず、日記にその想いを封印して、堪えきれない涙を堪えながら想いを断ち切ろうとする昔ながらの日記は何とも情緒があると思いませんか。もっとも、逆の見方をすれば、最近の若い人は人前でも、ブログでも、自分の気持ちを表に出せる、積極的な自己表現力をもっていると言えばかっこよく、それはそれでよいと思うのですが。
 日記に関して、先日、親の家で、不条理をテーマにした小説を読み漁っていた、多感な高校時代の日記というか随想録が出てきて、(もう37~38年前のことになるが)その一節に次のような下りがあった。「……ボクは決して自殺しない。しかし、積極的ではなく、消極的自殺とういう概念もあってよいのではないだろうか。何か事故、火災、登山中の遭難などに出くわした時(千載一遇のチャンス)、逃れようと必死になれば逃れられる可能性がある時に敢えて逃れようとせず、死を迎える。これを消極的自殺と呼ぶ。……」。付き合いのあった友人や先輩に5人も自殺者がいるが、自分にもこのように自殺について何らかの形で考えたことがあったんだなとなつかしく思う。周知のごとく、昔から思春期の自殺は多かったが、最近では中高年の自殺者も増加している。様々な理由があろうが、後に残された家族のことを考えると、責任放棄はすべきではない。未来はやはり現在と同様暗いかもしれないが、明るいかもしれない。可能性を完全に否定して未来を断ち切ってはいけない。求める基準を下げれば、今がどん底ならこれ以上の底はない。と言っても、自殺しようとする人間には聞こえないだろう。どんなに言っても無力なのかもしれない。医療に従事していて、1人の命を救うことがいかに難しいかいつも思い知らされる。医療が高度に発展していても、全精力を傾けてもダメな時はあるが、家族の祈りと信頼に支えながら、時間と体力、費用をかけ、医療スタッフが一丸となって、必死で1つの命を救おうとする。しかし、一方で、自殺、殺人、交通事故など、命が一瞬のうちこの世から消し去られてしまう。生命力の強さに驚かされることもあるが、命は儚く、たった一度きり。美しい日本の再生のために、教育の見直しを安部政権は最重要項目の1つに挙げているが、命の尊さ、生に対する道徳観について、将来の日本を担う子供たちに照れることなく教えて欲しい。政府について批判ばかりしておきながら、同系の不祥事には報道さえ控え、格差拡大の是正と言いながら(巨万のスポンサー料の下に)30歳代で5千万をゆうに越すマンションを購入し、接待天国につかりながら、バラエティー番組にうち興じているマスコミの抵抗はあろうが。

倉敷生活習慣病センター ターキー

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2007年1月15日 (月)

メタボリックシンドローム

生活習慣病とともに、最近テレビや新聞でもよく耳にする医学用語に「メタボリックシンドローム」がありますね。御存知の方も多いと思いますが、生活習慣病との違いも含めて、メタボリックシンドロームについて簡潔に解説します。
 まず生活習慣病についてですが、生活習慣の乱れにより出現する疾患(病気)生活習慣病と呼び、代表的疾患には糖尿病(日本に約740万人)、高血圧症(約3300万人)、高脂血症(約2200万人)、肥満症などがあります。生活習慣とは、過食・偏食、肥満、運動不足、ストレス、睡眠不足、アルコール多飲、喫煙などを指します。そして、これら生活習慣病の特徴は、生活習慣を改善することにより、その発症や進展を予防できるが、怖いのは病状が無症状のうちに進行する点であります。健診や病院であなたは糖尿病とか、高脂血症や高血圧症と指摘されても「えっ、ほんとうに自分が病気?食べるものはおいしく、いくらでも食べれるし、いたって健康だよ。どこも悪くないよ。」と自分勝手に考えて、この時点で生活習慣を見直せば病気が進行せずにすんだのに、これといった症状も無いからといって放置するため病状が進行し、数年後~十数年後に各種合併症が出現し、その時点で困った困った、どうしようと病院を受診することになるのですが、もう、それ以上合併症が進まないようにするのが精一杯ということになるのです
 次に、メタボリックシンドロームですが、生活習慣病との違いは、生活習慣病一歩手前(予備軍)で、まだ疾患(病気)には至っていないが、生活習慣を改善しないと近い将来、生活習慣病になってしまうと理解して下さい。内臓肥満(お腹の中に脂肪がたくさんたまっている)があると糖尿病、高血圧症、高脂血症などの生活習慣病を起こしやすく、生活習慣病になればもちろんですが、一歩手前のメタボリックシンドロームでも、脳血管障害(脳梗塞や脳出血)、虚血性心疾患(狭心症や心筋梗塞)を合併しやすので、肥満が気になる人は生活習慣を是正しましょう、ということです。メタボリックシンドロームの診断基準は表1に示しますが、これは国によって基準が異なり、日本では男性に厳しく、女性に甘い基準となっています。腹囲をもって内蔵肥満かどうかを判定しています。厚労省の発表によると、40歳以上に限ると男性では2人に1人、女性では5人に1人がメタボリックシンドロームないし予備軍とのことです。ただ、厚労省の発表はおかしいと野党議員が国会で問題として厚労省を責めたり、マスコミは一方的な意見のみを取り上げ、テレビ番組の報道ステーションではメタボリックシンドロームという診断名の下に、医師が薬品会社とつるんで必要も無いのに多くの薬を処方する可能性がある」とテレビで報道していました。確かに診断基準については問題点もあり、今後見直される可能性は十分あると思います。しかし、メタボリックシンドロームと診断してすぐに薬を処方するということはありません。前述したように、重要なことは、健診などでメタボリックシンドロームと診断されたら、進行して生活習慣病にならないよう、合併症が出ないように、食事療法や運動療法などにより生活習慣の是正を図ることです。生活習慣病になる一歩手前ですが、健康な人と比べれば、死因につながる虚血性心疾患や脳血管障害などを合併しやすく、種々の合併症を引き起こす生活習慣病に移行しないように、少しでも早い時期から、皆さんに注意を喚起するための警報としての言葉がメタボリックシンドロームなのです。
まず、定期的に健診を受けること、そして、もしメタボリックシンドロームと言われた方は、今日から生活習慣を見直しましょう

あなた自身のため、何より愛する家族のために・・・

表1.メタボリックシンドロームの診断基準
ウエスト周囲径
 男性≧85 cm、女性≧90 cm

加え(必須条件)、以下のうち2項目以上を満たす時
①中性脂肪≧150 mg/dlかHDLコレステロール<40 mg/dl(または高脂血症の薬物治療中)
②収縮期血圧≧130 mmHgか拡張期血圧≧85 mmHg(または高血圧症の薬物治療中)
③空腹時血糖≧110 mg/dl(または糖尿病の薬物治療中)

注:
(1)ウエスト周囲径の測定法
 立位で、大きく息を吸い込んだ後ゆっくりと息をはき、はいた状態で、ヘソの高さで周囲径(腹囲)を測定する。
(2)血糖と中性脂肪は朝の空腹時(朝食前)に採血すること

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2006年12月 4日 (月)

メディアに巣食う偽善的祖国破壊進歩的知識人

 12月に入って、昨日より急に寒くなり、やっぱり冬になっていたのだと改めて納得しました。寒波が急に訪れると、体調を崩し、カゼを引きやすくなりますので皆さんご注意下さい。インフルエンザも今後要注意です。
 さて、最近、いじめの問題などをはじめ教育問題が討議されているようですが、テレビ・新聞のコメンテーターや司会者、評論家ってほんとうに無責任だなと思いませんか。もちろん、中には毎日切磋琢磨されている人はいる筈ですが。確かに色んな要素が混在し、いじめた人間が全ての悪い原因であったとは言いがたいこともあるでしょう。また、いじめられた生徒が、実はその前にいじめっ子であったことだってあるかもしれません。学校、教師が確かに悪い時だってあるかもしれません。ただ最近の傾向をみていると、何でもかんでも、社会が悪い、政治家が悪い、公務員が悪いと文句をつけにくいところを責めておけば、世論は丸く収まるという風習が強いように思えますが、そうではないでしょうか。ですから、いじめにしたって、いじめた子、金銭をゆすった子は咎められず、曖昧な表現をした校長をマスコミが責め続け(いじめ続け)、校長先生が自殺しても誰も責任を感じないし、謝りもしない。確かに校長は当事者でなくても管理責任はあったでしょうが、校長を自殺に追い込んだのは一体誰の責任ですか(いいですか、人1人が死んだんですよ。人の命は地球より重いともっともらしく、強い口調で非難するマスコミが、自分たちに責任がある時は口を噤むのか)。いじめで生徒を自殺に追い込むのと、どこが違うのでしょうか。汚職に関与しても名前は伏せられる新聞社の人間、国会議員、しかも総理大臣を呼び捨て、バカ呼ばわりしても、自分は先生と呼ばれて悦に入っている訳のわからん評論家、庶民の気持ちがわかるかと大声で訴えながら、年収1億をゆうにこえている司会者やコメンテーター、あなた達の腐った正義感からみた正義、うんざりだなあ。かつて貧しくても美しかった日本、日本人の心、一体誰が汚しているのでしょう私達、医療従事者は嘘が言えない、隠せない、言えば隠せば罰せられるし、患者さんを欺くことは人道的にできない。そういう意味においては、私は今の職業についてよかったと思う。
 さあ、もうすぐクリスマスにお正月。この1年少しでも自分を向上させ得たか、反省しながら、新しい年を迎えたい。
               

倉敷生活習慣病の自称正論的憂国論者(ターキー)

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2006年11月 9日 (木)

感動。再び・・・

もう1ヶ月前になりますが、10月初旬に弘前市(青森県)に学会出張しました。さすがに青森は遠く、岡山から空路で東京を経由して青森に向かいました。学会では第一日目にワークショップの発表、第二日目はワークショップの座長と、日程的に過密であり、自由に動けたのは、半日のレンタカーによるドライブだけでしたが、精力的に、八甲田山、奥入瀬、十和田湖など回りました。八甲田山はもう紅葉が始まっていました奥入瀬は学生時代に一度訪れて以来、33年ぶりでしたが、昔の感動が再び体中によみがえりました透き通った水と清流の奏でる清らかな音色、岩場では白く砕けてフォルテシモ、視覚と聴覚が変化を持たせながら刺激されます皮膚へは心地よい湿度がもたらされ、木々やオゾンの香りが嗅覚と味覚をしずめ、大きく吸いこんだ胸には安堵感というか、例えようの無い満足感にあふれます。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚といった五感全てを自然の中で解放する時、まさに私達は自然の中で調和を保ちながら生かされているんだなと感じます志賀直哉の「城之崎にて」の中で主人公が大山、城之崎を巡っている時、気づいたように。しかし、ここで人生の終焉を身近に感ずるのではなく、ただ心と体をリフレッシュすればよいのです。)。また、このように、自然を五感で受け止めている時や、絵画、音楽に感動する時、目は視覚だけ、耳は聴覚だけ、皮膚は触覚を感じる器官に限っていないと思うことはありませんか例えば、感動的な音色は鼓膜だけでなく、目の角膜、皮膚も刺激すると思いませんか。色も音も全て波長で成り立っています。音は確かに鼓膜をその波長で振動させ、私達に音として認識させますが、目も皮膚も同じように振動させているのです。感動した音は鼓膜だけでなく、皮膚、角膜を通じて脳を刺激しているのではないかと思うのです。阿部公房の「第四氷河期」で、人類が水中で生活するようになると耳が聞こえないが、水中のコンサートでは皮膚の振動によって音を感じることができるというくだりがあります。私もそう思います。私は学生時代訪れた奥入瀬に感動して、今回また同じように感動しました。以前訪れたのは夏で、今回は秋でしたが、前回川辺でじっとして時間を過ごした場所に車を止め、ドアノブに手をかけ、奥入瀬の光景を眺めた時すでに、視覚的、聴覚的、嗅覚的にも、また触覚的(鳥肌が立つ)にも、前と同じ感動の記憶がよみがえったのです。五感を通じて感動を記憶していたからです。車から降りて、川辺に佇むと、五感を通じた記憶は鮮明によみがえり、さらに強く記憶されたようです。忘れがたい思い出の光景は幾つかありますが、奥入瀬は私にとってその1つです。同じ体験をしても年によって感じ方は当然変わると思いますが、変わるもの、変わって欲しいもの、変わって欲しくないもの、いろいろ。青春からあっという間に朱夏を過ぎ、いつのまにか白秋、噛みしめながら生きなければ。

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2006年10月 2日 (月)

糖尿病の症状

 このブログは患者さんもよく見てくれているので、医師は医療について書いてくれると、患者さんも喜ばれると思うよと、ブログの管理室から言われました。今までは医療とは関係のない私事ばかりというか、その日に思いついたことを書いていましたので、今回は医療のことにします。農協関係の雑誌(なごみ)に「糖尿病の症状」について書きましたが、それのオリジナル版(なごみはディレクターカット版)を掲載します。

 糖尿病は尿が出ると書いて糖尿病と命名されていますが、その前に血液中のブドウ糖が高くなりすぎて、余ったものが尿中に捨てられるために尿に糖が出るのです。つまり元は血液中のブドウ糖(血糖)がくなるのがの本態なのですから、糖尿病と言わずに高血糖病とか、高血糖症と呼ぶべき病気なのです。今回は、糖尿病になると、つまり高血糖が続くとどんな症状がでるのか考えてみましょう。
私達の腎臓は体にとって不要な物質、毒となるものを尿の中に排泄し、体にとって有益な物質は決して尿中に捨てようとしません。ですから、腎臓が悪くなると、尿中に捨てるはずの体にとって毒となる物質が尿中に捨てられず、血液中に貯まるので尿毒症と呼ばれます。ところが、血糖(血液中のブドウ糖)は体の細胞にとって一番良い栄養素ですから、通常では腎臓から尿中に捨てられることはありません。しかし、血糖値が高くなりすぎると腎臓が堪えきれなくなり、尿中にブドウ糖が出ていきます。では、血糖値がどのくらいになれば尿中にブドウ糖が出ていくか、つまり尿糖が陽性になるかと言えば、血糖値が160mg/dlまででしたら尿中に出ていきませんが、血糖値が200mg/dlを越えると必ず尿中にブドウ糖は出てきます。つまり、血糖値が高くなると尿中にブドウ糖を捨てて少しでも血糖値を下げようとしているのですが、私達の体ってほんとうによくできていますよね。では、血糖値が160mg/dlから200mg/dlの間の人ではどうかというと、170mg/dlぐらいで尿糖が陽性の人もいれば、190mg/dlぐらいでも尿中にブドウ糖が出てこない人もいます。中間をとって、血糖値がおよそ180mg/dlを越えると尿糖が陽性になると考えて差し支えないようです。
 血糖値が180mg/dlを越える高血糖状態が続くと、尿糖が持続して陽性となります。尿中にブドウ糖が多くなると、ブドウ糖は浸透圧が高い(周りから水分を引く力が強い)ため、尿中のブドウ糖が腎臓の血液から沢山の水分を引っ張ることになり、結局尿量が増える多尿)のです。昔、ナメクジを殺すのに塩をかけていましたが、塩は浸透圧が高いため、ナメクジの体から水分を吸い取り、ナメクジは干からびて死ぬのです。話を元に戻しましょう。夜間も血糖値が高ければ、夜間も尿量が増えることになり、就寝後も1度や2度は目が覚めてトイレにいく(夜間多尿)となるのです。こうして、尿量が増えて、体に水分が不足してくると、ナメクジと一緒で私達の体も干からびてしまうので、水分補給をさせようとして、喉が乾いた口渇)と感じるのです。喉が乾いたと思う時、カロリーのないお茶とか水を飲めばよいのに、こういう時って、口当たりの良い、ジュース、コーラ、ビールなどを飲みたがるものです。そうすると、血液が薄まって血糖値が下がるどころか、逆に益々血糖値は上昇していきます。ペットボトル症候群は、こういう人達のことをさしているのです。この段階でなお高血糖状態が改善されないと、高血糖状態(血液中の沢山のブドウ糖)は細胞からも水分を引っ張り、そしてその水分とブドウ糖を尿へ捨ててしまうのです。私達の体の中で最も水分に富む細胞は筋肉細胞ですから、まず最初に筋肉細胞が標的となって、筋肉細胞が少し干からびてきます。そうなると、筋肉に力が入らない、つまり、歩くのもだるい、体を動かすのも億劫だ、体がだるくてしょうがない、喋るのも鬱陶しい全身倦怠感、脱力感)といった症状が出てきます。さらに悪化すると、高血糖状態は体中の細胞から水分を奪い、そして水分と栄養源のブドウ糖をどんどん尿中に捨てるのですから、最後には体中が低栄養となり、体のボリュームが減ってきます(体重減少)。食欲はあるが、痩せていくのです。
 以上、多尿夜間多尿も含む)、口渇全身倦怠感体重減少の4つが糖尿病の代表的症状でありますが、よく糖尿病は症状のない病気と言われます。つまり多尿、口渇、倦怠感などの症状がほんとうは出ているにもかかわらず、血糖値の上昇が徐々に進行するため、症状としては感じにくいということなのです。だから、あなたは糖尿病かもしれないと健診で言われても「症状もこれといってないし」ということで病院を受診しないことが多いのです。しかし、体重が減少すれば、ほとんどの人が気づきます。どこかに癌ができたのでないかと思って受診する場合もあるでしょう。でも、そうなるとかなり糖尿病は進行しているのです。合併症が既に出ているかもしれません。
今まで肥満体の人が痩せようと思って頑張っても、体重は一向に減らなかった。そこで、もう自棄になって好き放題食べ出したところ、最近急に痩せ始めた。ひょっとして血糖値がよくなっているのかとニコニコしながら外来に来られる人がいますが、いざ血糖値を測定してみると、350mg/dlとか500mg/dlというように、とことん悪くなっていることが多いのです。
糖尿病の恐いところは症状が出にくいところなのです(沈黙の病気)。健診で糖尿病、あるいは糖尿病の疑いがあると言われたあなた、たとえ症状はなくても早く専門医のいる病院を受診して下さい(当院の倉敷生活習慣病センターはおすすめです)。お待ちしております。

倉敷生活習慣病センターのターキー

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2006年9月11日 (月)

MVPの価値 

 7月10日のブログに実は以下のように書くつもりでした。「今朝(日本時間)イタリアの優勝でサッカーのワールドカップ2006が幕を閉じた。昨日の3位決定戦(日本時間午前4時~)、今朝の決勝戦(日本時間午前3時~)と当然ながら観ました。ワールドカップは4年に1回のことなので、今朝は仕事に差し支えるかなと一瞬脳裏を過ぎっただけで何のためらいも無く、子供が期末考査で勉強中にもかかわらず、妻と一緒に観てしまった。結局、PK(ペナルティーキック)戦で、フランスの1人がキックを失敗し(失敗といってもわずか数~10cmのことで、バーに当たったボールが入るか入らないかの差なのですが)、イタリアの優勝となりました。僅かの狂いが大きな勝敗を左右する、わかりきったことだけど、運命は非情フランスのジダン選手も延長戦の後半あとわずかのところでレッドカードにより一発退場。もし、これがなければ、ひょっとしたら彼はMVPに選ばれていたかもしれないが、この行為により恐らくその可能性はなくなったと思われる。前々回のワールドカップフランス大会でフランスを初優勝に導き、前回の日韓共同開催でも連続出場を果たし、今回の大会を最期に引退を表明していたジダン選手、ワールドカップの欧州地区での予選突破も危ぶまれていたフランスが、彼の参加により次第に調子を上げ決勝戦にまで進むことができ、もしMVPを獲得できれば彼のサッカー選手としての最高の花道になったことだろうに。彼に堪え性が足りなかったといえばそれまでだが、そんな彼に極めて人間臭い魅力を感じる。成就を目の前にして、命取りに繋がるであろう、ふと見せた感情の暴走、野性の証明。賞賛の喝采よりも非難の嵐を敢えて選び、カタルシスの涙を流しながらその場に立ち竦む。我が人生に悔いなしと。フランスにおける移民の成功者としての象徴、英雄であった彼は、サッカー発祥の地ヨーロッパで彼を神のように崇め目標としていたサッカー少年達の夢を砕いても、たとえ不名誉な称号を与えられようと、MVPと引き換えでも守らねばならない信念の咆哮に従った。一体何がそうそうさせたのか??………(話はもう少し続くのですが)」。MVPを棒に振ってまで許せない言葉に抗議したジダンを称えようと思って、こう書くつもりだったのですが、やめました。それは彼がMVPを取ったからです。一体何がそうさせた?、イタリア選手が人権問題を口にした、母親をはじめ家族のことについて許しがたい誹謗発言があった、などジダンは訴えたが、後になって、結局、人権問題、母親のことには触れておらず、ただ姉のことを口にしただけと発表された反則を犯さなければ間違いなく決勝点の1点をいれられそうだという時のやむを得ないレッドカードならしょうがない勝敗が決まって、プレーとは離れたところで、あってはならない行為の頭突き。以前にも彼は同じような暴力行為でレッドカードをもらっている。負けた悔しさもあろうが、弁解の余地なし。彼にMVPをやってはならないと思う最高殊勲選手の称号は卓越した技術だけでなく、気高いフェアープレー、賞賛すべき人格なくして与えられるべきでないとボクは言いたい。犯罪を犯すことは論外として、超人的なプレーは非道徳的な行動も帳消しにするようでは、サッカーはプロレスやどこかの国のボクシングファミリーと同レベルのスポーツに成り下がってしまう。彼にMVPの投票をした人達に猛反省を促したい。サッカーをこよなく愛する世界中の人達、明日のスター選手を夢見るサッカー少年の夢をどうか壊さないで欲しいジダンよ、そしてMVP選考者達よ、地味故に正当な評価を受けなくとも、レッドカードをもらわないようにジッと耐えて仕事に励んでいる人達も大勢いるんだよ。自分のため?いや、親、妻、そして何より子供達のために。ワカルカナー?ワカンネーダローナー(昔流行)
マスコミなんて勝手すぎる、口先だけの正義、秘めたるエコヒイキ。他人に厳しく、身内に甘い性格………。あっ、だめだ、だめだ、マスコミ批判ならきりがない。あんまりグチグチ言っていると人生が空しくなるから、今日はこのあたりで。

倉敷生活習慣病センターのターキー

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2006年8月 7日 (月)

星に願いを

1ヶ月前このブログに「私は夕日をみるのが好きです。」と題して、夕日のよさを書きました。すると、夕日は好きくないとか、夕日より朝日のほうが好き、私は星を見るほうが好きなどと反論がありました。私の拙いブログに目を通して頂き有難うございました。結論から言うと、そうなんです。おっしゃる通り。人それぞれ好き嫌いがあり、十人十色なのです。私もそう思います。
星を見るほうが好きと書き込みしてくれた方に一言。私は気が多いのか、実は星を見るのも大好きなんです。よろしかったら今度是非ご一緒しませんか? 大学生時代に日本アルプスに登山していましたが、高い山の上で見る星空は格別ですほんとうに星までの距離が短くなったように感じ、あたかも手が届きそうな錯覚に陥ります。夜空が澄みきっていれば、1個1個の星の大きさが大きくなったように、また明るくなったようにも思えるのです。大学を卒業してからは、私も登山をしていませんし、登山をされない方にもgood newsを。上高地でも同様の感じが味わえます。マイカーの乗り入れを禁止しているため、自然が守られている上高地は素晴らしいですよ。梓川の河原に腰をおろし、満点の星を眺めていると、時間が止まっているのでは?と思い、もしそうならこのまま止まっていてくれと願いながら、心を空にして空を仰いでいると、いつまで星空を見ていたって飽きません。そのうち梓川の流れの音によって、ようやく時の流れを認識しますが。また、宇宙はあまりにも広大過ぎて、果てがあるのか無いのか、宇宙について考えていると気が遠くなりそうです。煌めいている星の光も、月のように十数秒前の光もあれば、数万前あるいは何億年前の光もあり、人の一生なんか、なんて儚いのでしょう。しかし、限りない時空の中で、自分の人生はたった一度のみ、その儚さ故、生きて良かった、苦しみの連続であったが、それに匹敵するだけの楽しいこともあったと思える人生にしたいですね。ちょっと、話が暗くなってきたので、方向転換。
星を見るのが好きと書きましたが、プラネタリウムで星をみるのも好きです。ちょっと不純な動機なんですが。学生時代、(今と時代が違うこともあるし、もろもろの事情で)一夜を共にできない人と一緒にプラネタリウムに行きます。明るいところから、(プラネタリウム会場で)相手の女性と暗闇の中で手をつないで星を眺め、上映が終わり外に出ると、外はまだ明るい、その女性とまるで一晩一緒に過ごしたような気分になって、軽く満足。今思えば、なんて純粋でかわいい学生時代であったことか。色々、星にまつわる思い出はありますが、今日はこのあたりで。

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2006年7月10日 (月)

7月10日

私は夕日を見るのが好きです。学生時代、日本アルプスに登山していた時は、尾根の縦走は早朝出発して遅くても昼過ぎには小屋につきますし、夕方にガスが出ることも多々あり、夕日より朝日(ご来光)を拝んだことが多かったように記憶しています。朝日も気持ちが引き締まり感動的なのですが、その時間は短く、夕焼けの時間帯の方が長いこともあり、夕日を見る時は様々な感情が胸に去来して格別なひと時です今日も1日生きられた喜びに感謝しながら、こんなにも美しい自然の中に身を委ねることができ、夕日は空を真赤に染めながら、私の一日の疲労、苦悩を焼き尽くし、やがて来るべき闇が私も含めて全てを包み込んでくれる。そして、日はまた昇る(絶対という保障はないのですが)、この明日への希望が、果てしなく焦燥しきった心と消耗しきった体でさえ潤してくれ、新たな生きる力を与えてくれるような気がするのです。学生時代に読んだカールブッセの詩「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う。………」を思い出します。現在おかれている我が身の不幸を憂い、幸いを求めて山の向こうの町を想うのですが、新しい町に行っても結局同じことで、不幸を憂い、また幸いを求めて山の向こうの新たな町に想いを馳せるという詩です。何が幸福で、何が不幸かわからず、幸福をつかもうと努力する訳でもなく、幸福が自然に向こうからやってくると思っている。これでは不幸から脱却できないのも当然です。幸福の定義は困難で、よく、幸福とは不幸でないことと定義する人もいますが、幸福って何だろうとよく思いますよね。カールブッセの詩で1つ言える事は、幸福は場所だけでは規定されないことです住むところ、職場、環境、それらも確かに重要な要素ではありますが、「住めば都」で、ベストの幸福は得られないにしても、それなりの幸福は得られる筈です。幸福の尺度なんて本人の気持ちの持ち方で変わるのです。ということは、傍から見ると一見不幸そうに見えて実はその人は幸福と感じているかもしれない。悪いことばかり探さず、小さなことでも善い面を見つけるようにすれば、決して不幸ではないな、全てが悪いことだらけの人に比べると、むしろ自分は幸せなのかなと思えてくるかもしれません。また、幸福を規定する要素としては、社会的地位、名声、財産(金)も決して否定はしませんが、愛、信頼、悩み、健康なども重要な要素だと思いませんか。少々貧しくても、万年平社員でも、仕事と金銭面以外では特に悩みも無く、健康で、信頼できる友人達に恵まれ、愛する人達がそばにいて生活できていたら、幸せと感じられるのではないでしょうか。愛する人とは?(愛については、また後日意見を述べたいと思います)愛は対象も形も色々です。恋人間(恋愛感情)の愛、夫婦間の愛、親子、兄弟、友人、師弟間の愛など様々な対象があり、また、やさしさ、はげしさ、きびしさ様々な愛の形があります。私には愛とは「かけがえの無さ」と「貴重な時間の共有」が根底にあるように思えます。具体的に言えば、会って欲しい、時間を割いて欲しいと言われて、確かに仕事のため融通できない時はあると思いますが、いつもその繰り返しでは、愛は存在していないと思うのです愛していれば、どこかで必ず時間を共有する筈です。長年培ってきた経験と至宝の知識を教える時、愛する弟子にはぜひ聴いてもらいたいし、ほんとうに美しい空間で、美しい時間を過ごしている時、心から感動している時の流れの中で、かけがえの無い人が傍にいて、その時間を、その空間を、つまり人生の一部を共有できたらと思うのです。つまり、愛する人との時間的、空間的共有です。 長々と思いつくままに書き込みましたが、ここで最初の夕日の話に戻ります。結局、南極(意味不明の昔のギャグ)、色々な思いを胸に美しい夕日を見る時、その時間、その空間を共有してくれるような誰か愛する人がそばにいて欲しいなということが書きたかったのです。もちろん、夕日は1例で、夕日に限った訳ではありませんが。ちなみに、夕日観賞に対しての我が妻の一言「夕日を見ていると寂しくなるから嫌だ、夏だと虫に刺されそうだし…」我が高校生の娘の一言「つまんねー。そんなに好きなんなら一人でずっーと見ていたらいいじゃんか。バッカでねー。」あー神よ、何故にあなたはロマンチストの称号を女性にも与えようとしないのか。           

倉敷生活習慣病センター タッキーではなくターキー

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2006年6月12日 (月)

梅雨

6月8日中国地方もついに梅雨入りをしました。学会で金沢市にいっていた私はそんなことつゆ知らず。私にとって、梅雨は一年の中で最も嫌な季節です。というのも、学生時代夏山登山を始めた頃、湿気の少ない山稜地帯から下山するとジンマシンが体中に出現するようになって以来、湿気の多い梅雨の時期にはジンマシンがひどくなるからです。また、元々高血圧症の家系なのですが、梅雨時には特に血圧が上がりやすいということもあります。ほんとうに湿気自体が悪いのか、ジメジメして気が滅入りそうでイライラするあまりジンマシンは出るし、血圧も上がるのかもしれません。しかし、梅雨を恨んでいては、水不足に悩む隣県の香川県に申し訳ないし、美味しい米も食べられません。雨に耐えながらも、うな垂れることのない紫陽花の謙虚な美しさ見て、ほっとしながらも耐える力を再認識出来るのも梅雨の季節しかありません。このように、主観的見地からだけでなく別の視点からも眺めてみると、悪いことばかりじゃないね、良いこともあるんだなあと今更ながら納得しています。梅雨よ、もう毛嫌いしないから、これから約1ヶ月、ストレスを貯めないようにするし、塩分制限も頑張るから、どうかジンマシンさんと血圧君にマジギレしないよう頼んでくれ!

倉敷生活習慣病センターのターキー

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